須賀敦子『イタリアの詩人たち』その1
1章 ウンベルト サバ
この本は、須賀敦子の初のエッセイ連載を纏めたものであって各章ごとにイタリアの詩人をその詩とともに紹介したものです。そんなに昔というわけでもないけれど学生の頃、授業の合間に図書館に入ると棚に須賀敦子全集の背表紙たちが白く光っているのが妙に気になって手に取ってみたことを覚えています。そこから須賀敦子に興味を持ちました。もっとも、重くて借りて帰るのは面倒だったので合間の時間にまばらに読んだことしかなかったのですが。
さて、最初の章ではイタリアの詩人、ウンベルト サバ(1883-1957)の六つの詩(の翻訳)たちの間に須賀が文章を添えています。五つ目までほぼサバの生涯に沿う形で詩が紹介されていて最後の六つ目で初期(1910-1912頃発表)の詩「トリエステ」に戻る構成となっています。
植木算的計算から、六つの詩に七つの間奏を須賀は加えていることがわかるのだけれどサバの詩の連なりのつくる緊張感を殺さぬよう詩+エッセイ全体が設計されている印象を受けます。サバの見た風景あるいはサバの出会った人々に関する情報は、冗長な文章にならないよう一文に現れるwhere,when,whoなどの関係副詞に*高密度*で梱包してあり、対照的に須賀の見た風景/背景の記述はそれらと比較して軽い文章の連続になっているようになっています。例えば「三つの道」と「山羊」をつなぐ間奏は須賀の考えるトリエステの風景とサバの生い立ちの説明から構成されているが僕は前者のリズムは後者に比べて軽やかになっているように感じました。
このことからこの本を読むヒントとして、
同じトリエステの風景でも詩人たちの見たものと須賀敦子が見ているものが、どう接続されていてどう分離されているかに注目して読めば面白いのではないか?
というものが浮かびました。
実際、このエッセイ自体が1977-79(当時40代後半)に発表されたものであり、須賀敦子のイタリア滞在の数年後から十数年後に書かれたものであること/夫であるペッピーノとの別れに注意を向けてみると、風景の接続として、七つ目の間奏とサバの六つの詩が見事に共鳴していることに気付きます。
「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら、そして、なにげなく選んだ道をサバとともに散歩できたなら……」
この共鳴自体サバに関するエッセイのおよそ20年後に改めて「トリエステの坂道」という作品に綴られているらしいが、まだ読まないことにしておこう。
彼女は30代で経験してしまった"失われた風景や時間"(と言っていいのか分からないが)をその後語っていくのであるが、どちらかというと上で述べた接続自体は過剰な反応として現れる気もするので、むしろその過剰な接続をどう制御/分離し彼女固有の作品として結晶化させていったのか、ということに僕は興味があります。
今日はここまで。
ちなみに
ポケモンGOをやってると、あまりにも最近本を読まなくなったり、ものを考えたり書いたりしなくなってしまったことに気付いたのでリハビリとして日記を始めてみることにしました。